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シャープさんさんの作品:第8回シャープさんの寸評恐れ入ります

おつかれさま、 @SHARP_JP です。ご多分に漏れず、私も会社で働いていると疲れる。それもうんざりするほど疲れる時があります。その疲労はもちろん、人間関係とか職場環境といった、「それな」としか言いようのない要因もあるのですが、私の場合、「意味に疲れてしまう」ということがままある。


企画書を書けば冒頭は必ず、それをやる意味を説く。上司に報告をしようものなら、とった行動の意味まで説明を要す。微に入り細にわたる職場のルールは、揃いも揃って意味を圧迫してくる。挙げ句の果てには私の場合、ツイートの意味を、よくわからないない人(ほとんどはネットすらやってない)に説明させられたりもする。「君、このツイートのどこがどうおもしろいのか述べよ」というような形で。企業の活動も、そこで働く人間の行動も、なんでも意味だ。意味がなければ存在が許されない、そういう世界。


だけどですよ。声を大にするつもりはないけど、人間の行動って、いつもそんなに意味ある?意味なんかないけど、楽しいことってあったりしない?ていうか、あらかじめ意味が説明できないと行動できないとか、ちょっとしんどくない?


あらゆる行動やアイデアには、一対一で意味が付随するわけでもないし、当の本人でさえ、意味があとから知覚されることだってある。行動やアイデアの意味なんて、決してシンプルにひとつなはずもなく、自覚できる意味、まだ自覚できない意味、自分の内側でなく、むしろ周囲から課せられる意味だって、ほんとうはたくさんあるはずだ。行動の前に意味のプレゼンを要する世界は、まるで入力の前に出力を求められるようで、私はゆっくり窒息するような気持ちになる時がある。


たぶんそういう時が、芸術の出番なんじゃないか。意味など軽々と飛び越えて、なおかつ意味を語らずして、目の前にいる人間と相対する芸術は、私に憧れのような痛快さと、静かな安堵をもたらしてくれる。うんざりするほど疲れると芸術を欲するのは、きっとそういう理由なんだと思う。


一芸(小山コータロー 著)



想い(やじま けんじ 著)



今回はちょっと変化球な寸評になりそうです。上記の2作を読んだ方は同意してもらえると思いますが、作品そのものがまず変化球。球が曲がるとかそういう以前に、球が変化してる。へんげ球。へんげマンガ。


そして次に、私は言いたい。「この作品について、意味を語る必要ある?」


作者の小山コータローさんは、違和感コメディクリエイターと自称されるだけあって、それはもう「意味の彼岸」としか言いようのない作品がたくさん(図形家族シリーズとか読んでみて)そしてこれはかんぜんに私の憶測ですが、作者の小山さんだって、ほとんどの作品において、描く前に意味を把握していないだろうし、描いた後もその意味を語る術を持っていないのでは。10年後くらいに突然語れるかもしれないけど。


なおかつ今回は、別の作家であるやじまさんが、同じキャラを使って応答し、意味の彼岸をさらに遠くへ打ち返しているわけです。ここでは「ラリー」というコルクBooks特有の仕組みが、まったく知らない言語で繰り出されるラップのフリースタイルのように、意味をはるか遠くへ放り投げ、ただ感覚的な快楽とともに私の眼前に現れる。それを読む私は、おふたりと同じスピード感と快感を追認するように、ニヤニヤが止まらなくなる。そして同時に、ほっとする。私にとって、意味から解放されるこの体験が、癒しという行為なのだ。意味に疲れたら、意味を放り投げた作品を浴びるにかぎる。おすすめです。

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