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シャープさんさんの作品:もうみんな、非リア充だということにしませんか。平成ラストのクリスマスの話。

さてさて苦々しい季節になって来ました、クリスマスに何の価値も見出さないマン(詳しくは前回の寸評を) @SHARP_JP です。いかがお過ごしもなにもないですよね。ただの師走です。これは私が歳をとったからか、それとも時代が内省的になったのか、いまいちよくわかりませんが、さいきんクリスマスというイベントが、さほどもて囃されなくなった気がしませんか。しませんか。そうですか。


平成最後のクリスマスというような煽りも聞かないし、かつてはマーケティングとタッグを組み、われわれにモテるモテないを突きつけてきた、扇情的な要素が効力を失いつつあるのかなとも思うものの、それでもやっぱり、クリスマスはリア充の象徴だ。それはまた、非リア充の呪詛が溜め込まれる日でもある。ただね、私はだんだん思うのです。リア充と非リア充は、はたして対立する属性なのか。けっきょくのところ、みんな非リア充を基礎に、毎日ささやかなリア充を積み立てたり、リア充を目指しているだけなんじゃないかと。


みなさん、Facebookやインスタ見ますか。そこでなにを見てますか。私なんか時々、友人知人の近況に詳しくなりすぎて、空恐ろしくなる時があります。あの人がきのう食ったラーメン、きょう食ったカレー。同僚がこぞって乾杯するなにかの打ち上げや呑み会。アイツが行った週末のBBQ。ラン。キャンプ。お買い物。私の脳には止めどなく友人知人のリア充が流れ込んでくる。そしてそれはたいてい、いやほとんどの場合、「私以外」が充している様子なのだ。BBQの集合写真も、乾杯の写真も、ランチの皿の向こう側にも、私はいない。


SNSとくくってしまうと乱暴かもしれないけど、友人知人とかんたんに繋がるツールは、結果的に「自身の不在」を浮き彫りにしたのではないか。そもそもスマホが、ひとりっきりで使うものだ。スマホでSNSを見ることは、自分の孤独を覗き込むことのような気さえしてくる。たぶん、スマホとSNSを手にしたわれわれは、全員残らず、心が非リア充になってしまったのだ。いやまあ極論なんですけど。


生命力吸収スイッチ(にしもとのりあき 著)


みなさん、最後まで読みましたよね。どうですか、共感しますか。私はします。するさ。冒頭の生命を感じさせない目が、自分を消さざるをえないあの日を雄弁に物語る。だが主人公は、電話でペコペコ謝る会社員を目に捉えたことをきっかけに、ターゲットであるリア充から目をそらし、街のあちらこちら、各自の持ち場で淡々と奮闘する人々の存在に気づく。


だれかのためにもくもくと働く姿に、いつしか主人公は自分を重ね、仲間を応援する気持ちでエールを送る。みんながんばってる。ひとりじゃない。さびしくない。ふつうはここで物語は終わる。私もいい話を読ませてもらったと、ここまで読んだ時間の回収にかかる。


だが終わらない。リア充と非リア充の話はそんな大団円はしない。電話で詰められていた気の毒な会社員に、待ち人が現れる。おそらく恋人だ。彼はあっち側だった。主人公の目は2度死ぬ。そのリアリティ。リア充をカウントする主人公の仕事は、世界を2つの属性に仕分けることだ。だけど世界はたぶん、そう単純でない。同じ人間の中でも、リア充と非リア充は共存しえるし、なんなら瞬間的に入れ替わることだってある。たぶんそれがスマホを手にした、いまのわれわれの姿なのかも。


鍵は、みんな非リア充だという前提に立つことなんじゃないか。みんな少しずつ、ずっと寂しい。だからその孤独を了解しつつ、友人知人をもう一度見てみる。そして寄り添うように、ふたたびコミュニケーションを試みる。そういう心持ちで、今年のクリスマスは過ごしませんか。それでも暗い気持ちや呪詛がむくむく頭をもたげるなら、このマンガをもう一度読み、裏アカにでもツイートすればいい。なんなら私にリプしてもいいよ。解決はできないけど、受け止めることくらいはできる。伏し目がちに、メリークリスマス。

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