シャープさんの連載:シャープさんの寸評恐れ入ります
最新順
連載

シャープさんの シャープさんの寸評恐れ入ります

(全27話)
2018年11月06日 シャープさん
毎週木曜更新予定の寸評連載です。
8日前

コーヒーは日に3,4杯は飲む @SHARP_JP です。朝起きたら飲むし、出社したら飲む。遅い昼食を済ませたら飲みたくなるし、仕事が佳境を迎えても飲みたくなる。おそらく私は、そうとうコーヒー好きだ。


いい歳した大人がこういう話をすると、たいてい「おれはコーヒーにうるさい人間だぞ」という香りを周囲にふりまきがちですが、私にはそういう意図はない。かといって自分が「味の分別がわかる大人であること」をあえて拒絶するような、露悪的な気持ちもない。なぜなら私がいちばん好きなコーヒーは、セブンイレブンのマシンで淹れるコーヒーだからだ。2番目に好きなのはマクドナルドの。


だからむしろ、豆の種類や淹れ方、焙煎の具合からお気に入りのコーヒーショップまで、なにひとつ語ることができない私は、コーヒー好きを名乗る資格がないように思えて、いつも口ごもってしまう。だけどきょうはおそるおそる言います。セブンイレブンのコーヒー、おいしくない?私、セブンイレブンのコーヒーを3000杯(計算してみた)は飲んできたけど、いつもいつの日も「ちょうどいい」と思ってしまう。


もちろんその「ちょうどいい」は、モノの価格の高低を言いたいわけでもないし、グルメに対する価値の高低を言いたいわけでもない。私にとってのコーヒーのちょうどよさは、自分に慣れた味がいつも同じように手に入る、ということなのだ。私がなにかを好きになるには、そういう日常の「ちょうどよさ」を感じられるかどうかが、大きなウェイトを占めるのでしょう。


なんだか所帯じみた話になってしまった。



僕らのコーヒー(にしもとのりあき 著)



ここでもコーヒーが描かれています。むしろコーヒーが主役。Mr.coffeeという25年も活動を続けるバンド(ミスチルがモデルでしょうか、それともMR.BIGでしょうか)のファンふたりが、文字通りコーヒーを媒介に仲良くなり、コーヒーをきっかけに再会を喜ぶ。


若い人にはピンとこないかもしれませんが、ネットやスマホが普及する前、人気のチケットを確保するには鬼のように電話するか、実店舗でひたすら並ぶしか選択肢がなかったのです。そんな時代、徹夜覚悟の待機でたまたま隣り合ったふたりは、あたたかいコーヒーをきっかけに、同好の士であることが判明する。


このふたりにとって、コーヒーとは何だろうか。コーヒーを飲むたびに、あるいはコーヒーという文字列を見るたびに、好きなアーティストとお互いの存在が思い浮かぶ。コーヒーとのつきあいは長く、20年が過ぎた。ゆったりなのかあっという間なのか、流れたコーヒーとの時間はふたりの半生とも言えそうで、だからこそ懐古でもなく、これから迎える時間さえ、コーヒーと友人の姿をありありと想像できる。


このふたりにとって、コーヒーの「ちょうどいい」は時間の流れなのかもしれない。味も光景も、思い出も人格さえも、いつでも思い出し、想像することができる。コーヒーを介せば、過去も未来も地続きの時間として、早送りも巻戻しもできる。コーヒーはふたりの時間を伸び縮みさせる、四次元の飲み物なのだ。そんな「ちょうどいい」を、私もこれからいくつ持てるだろう。


とここまで書いて、この作品がネスカフェさんによるお題企画であることに気づきました。冒頭からセブンイレブンのコーヒーを推してしまい、申し訳ない。あわててサイトを読む。


https://nestle.jp/brand/nescafe/nescafe3bai/


1日3杯のコーヒー習慣がいい人生をつくる「3 Coffee a Day」という考え方には共感します。(コーヒーが苦手じゃなければ)みなさんも、それぞれにちょうどいいコーヒーと、おつきあいしていきましょう。


   5583        0        78
15日前

口に出して読みたい元号、令和。言いたいだけの @SHARP_JP です。私はふだんツイッターを舞台に、自分の会社の製品をおすすめしたり、しなかったりしている。しない方が多いけど。おおざっぱに言えば、私はインターネットの中で宣伝や広報をするのが仕事です。


インターネットで宣伝とか広報というと、ITやらデジタルやらとくくられ、比較的新しい仕事だと思われることが多い。いやいやインターネットが新しいとかいつの時代だよ、とおっしゃる気持ちもわかりますが、新聞やテレビの世界と比べれば、依然として新しい側の仕事ではある。


お箸のようにスマホを使う若い人にはピンとこないかもしれないけど、日本の会社には、おどろくほどいまも「昔ながら」が息づいていて、新しくないのに「ずっと新しいまま」にされる職種や仕事がある。


特にツイッターなんて、若者の巣窟みたいなイメージはまだ色濃く、私の仕事は若者をターゲットにした宣伝、と社内で仕分けされることもしょっちゅうだ。使う人と使わない人、現場にいる人といない人の間にギャップがあるのは会社や組織の常だけど、「SNSは若い人たちの世界」という解釈はあまりに手垢のついたイメージではないかと、ツイッターを使い、ツイッターの現場にいる私なんかは思うわけです。


そもそも私は、世代で切り分けて宣伝方法を考える仕事をあまり信用していない。家電なんて、ランドセルや老眼鏡じゃあるまいし、年齢によってそれを必要とする切実さが変わるわけでもない。せいぜい、いっしょに暮らす人数が変われば、冷蔵庫や洗濯機に必要とされる大きさが変化するくらいだ。


しかも家族を構成する人数だって、1人が2人に、2人が3人へと、ステレオタイプに人生がシフトする時代でもない。世帯のあり方はすでに多様だ。ずっと1人だっていいし、いきなり5人で生活する人だっているだろう。


だから私は「今回の広告は若年層を狙ったクリエイティブでテコ入れを」みたいな意見は話半分で聞くし、あらゆる人の人生を年齢で区分するあなたの思考こそ、抜本的に見直さなければいけないのではと、こっそり思ったりする。人を年齢で区分けするヒマがあったら、私はひとりひとりの切実さにどこまで広告がタイムリーに寄り添えるかを考えたい。


だけどいくら人を年齢で区分けする行為から離れた仕事を志そうとも、なにかを企画したり発信したりする上で、私がぜったいに忘れてはいけない世代の人はいる。スマホやパソコンを「機械」と呼ぶ人たちだ。



老人と機械(ひびのし 著)



インターネットが当たり前に普及し、いくらツイッターが幅広い人に利用されても、そこに参入することができない人は必ずいる。それはインターネットやツイッターの外にいる人たちで、インターネットやツイッターの内側にいる私から見れば、私の仕事がぜったいに届かない人たちだ。私は自分のメッセージが「ぜったいに届かない人」を想像する時、いつもパソコンやスマホが機械と呼ばれる姿が思い浮かぶ。


だがパソコンやスマホを機械と呼ぶ人は、驚くほどあなたや私の身近にいる。たとえば、あなたや私の実家に。ふと実家を思うように、自分の圏外にいる人を思うこと。あなたや私にとって当たり前のツール、当たり前の製品にも、それが当たり前でない人の姿を、いつもありありと想像できること。そこには、人を乱暴に区分けしてなにかを伝える仕事に欠けてしまった、大事なことが含まれているはずだ。


また同時に、テクノロジーを機械と呼ぶ人は、決してテクノロジーの可能性が閉じられた人ではない。この作品の父親のように、おずおずとテクノロジーに踏み出す勇気を持つ人はいる。私たちはその勇気に寄り添うべきだし、いつだってその勇気にきっかけを提供することを諦めてはいけないはず。それこそ、テクノロジーに奉仕する、メーカーの人間の義務ではないか。


おそるおそるカラオケを再開し、離れた家族とコミュニケーションが増えるどころか、YouTuberまではじめたお父さんを見ると、私の仕事のゴールは「機械」という他人行儀な呼び名がなくなることなのかも、と思ってしまう。ひさしぶりに親から送られてきた写真が、拙いながらもくっきりとした縦動画だった時、私はその勇気を賞賛したくなる。機械がスマホと呼ばれる瞬間だ。

   17988        0        247
22日前

小学校、中学校、高校、大学などなど、さまざまな卒業式もひとしきり終わったところでしょうか。@SHARP_JP です。そういえば今年も、とある学生さんの卒論をお手伝いしたのですが(企業ツイッターをテーマに論文を書くから協力してほしいという要望は毎年ある)、彼女が無事に卒業できたと聞いて、ほっとしたのでした。


入学にしろ、就職にしろ、ある場所から離れ、次に新しいなにかに属そうとする人にとって、ちょうどいまは終わりと始まりの狭間、凪のような時間なのかもしれません。不安と期待がせめぎあい、活発なのに静かな時間は、なかなか貴重です。卒業と入学の間の、無所属の春休みみたいな時間は、大人になると、転職が決まってからの有休消化とか、よほどの転機がないかぎり味わえない気がする。結婚式の前日とかも似た気分なのかも。


そんなことより春から新生活をはじめるみなさんへ、私が強く申し上げたいのは、引っ越し先でそろえる家電はおわかりですね、ということだ。みなまで言わんけど。ひとり暮らしをはじめる時にそろえる家電というのは、われわれメーカーにとっては千載一遇のチャンスで、家電が「買い替え」として買われない、人の長い一生の中でも、あまりないタイミングなわけです。


ここで選ばれれば「まあ次もシャープでいいか」と思ってもらえる確率は飛躍的に高まる。ここであなたと馴染みの存在になれば、われわれはもう少し生き長らえられる。だから、頼む。お願いします。わからないことがあったら、いつでもツイッターでリプしてもらってけっこうですので。


思ひ出の第二ボタン(ナタでココ 著)



この作品は #卒業式の黒歴史 というお題に投稿されたものですが、まずもって卒業式は、おのれの黒歴史に幕を引くことができる、むしろ白歴史のはじまりではないかと思うのは、私の学生生活が黒一色だったからでしょうか。


重ねて言うと、制服の第二ボタンなんて、非実在性ボタンというか、架空の物質だと思っていたのですが、それも私の学生生活が黒一色だったからでしょうか(実際に私は男子校で制服もボタンのないタイプだった)


いまこのテキストこそが、卒業式の黒歴史というお題にぴったりな気がしてきた。つらい。みんながそうだとは決して思わないけど、卒業式の晴れがましさが、苦楽を共にした友人との新たな門出だからではなく、永遠に続くかと思われた、あの重くて孤独な日々からの開放感に由来する人がいることを、私は忘れないようにしたい。


どんな理由にしたって、卒業する人も、見送る人も、卒業式は自分の心にピリオドを打つ日だ。この作品のように、先輩を送る後輩も自身の恋心にピリオドを打つために、第二ボタン(私は見たことないけど)を所望する。後輩にとっての卒業式は、たぶんもう会えなくなる先輩を過去の人にするための儀式だ。ところが先輩は、ボタンとともに彼女へ「部活はお前が引っ張れ」と宿題を託す。先輩が過去の存在どころか、自分のこれからを見守る存在になってしまった。


「ちゃんと卒業させてよ・・・」と、当初の決意とは裏腹にピリオドを打てなくなった後輩の噛む下唇が、切なくもかわいい。長く抱えた思いなのだから、ピリオドなんてかんたんに打てないよね。


ただし私たちの日常に無理やり切り取り線を引くような卒業式というイベントは、なにかを終わらせたり、なにかを変えるきっかけに作用するのは確かだ。かつて卒業式で開放感を感じた私は、後ろ向きな卒業式も案外悪いものではないと思うのです。


さまざまな立場や思いで卒業式をむかえたみなさん、卒業おめでとうございます。卒業式に去来する思い出が明るい人も暗い人も、これをいいきっかけに、それぞれがおだやかでたのしい新生活を。そして家電はシャープを。


   4310        0        78
29日前

私事ながら、この文章は祖母の葬儀の翌日に書いている。遠方に暮らしていたということもあって、大人になってからの私は、ひんぱんに祖母へ顔を見せるような、殊勝な孫ではありませんでした。その点について、きのうからずっと頭の中で詫びの言葉を繰り返している。


一般におばあちゃん、あるいはおじいちゃんと孫といえば、「なんでこんなにかわいいのかよ」という歌があるように、溺愛という言葉がぴったりの、ほほえましい関係が想像されるでしょう。彼女にとっては初孫だったこともあって、例外なく私も、目に入れても痛くないという溺愛を受けたようだ。


もちろん幼い頃の記憶はしばしば書き換えられるし、いともかんたんに忘れてしまう。私も遠い昔の溺愛された記憶は、悲しいくらいディティールをとどめないけど、大人になるとその分、ぼんやりとした思い出の輪郭や手触りが、自分にとってどういう意味だったのか、よくわかるようになる。


私にとって、祖母からの溺愛は「お前はここにいてもよい」という怒涛の承認だった。右も左もわからず世界に放り出された私が、親以外の存在に肯定されること。家とは別の場所で、自分の居場所を与えてもらうこと。そのはじめての経験が祖母からの溺愛だったのではないかと、あれからずいぶん年をくった孫はようやく理解できる。少なくとも私は、その溺愛(されたという手触り)がなければ、ここまで生きるのにもっとずっと、しんどさがつきまとっただろう。


そういうことを、祖母の美しい遺影(文字どおり私の祖母はけっこう美人だった)に手を合わせながら、言い訳がましく思ったのでした。


変わらないもの(ボブっ子ボブ 著)



そんな私が、いささか不謹慎な言い方だけど、タイムリーに出会ったのがこの作品です。祖母と孫のお話。自由に出かけることがかなわなくなった老いた祖母に、グーグルマップを見せる孫。見せているのはたぶん祖母が生まれ育った土地でしょう。だが期せずして、グーグルマップは祖母の記憶からすっかり変貌した様子を見せてしまう。街並みが変わることはありふれたことかもしれないけど、その変化に並走できない人はいる。時にテクノロジーが残酷さを突きつけてしまう瞬間だ。


だけど孫は、その残酷なテクノロジーを再び使って、変わらない景色を探す。機転を利かせて探し出したのは、その土地の神社だった。祖母の記憶と寸分変わらない場所は、祖母がかつて諦めた記憶をしまいこんでいた場所でもあって、モニター越しの神社はもう会えない人の存在を引き出してしまう。


「もう二度と会えんかと思っとった」人とは、おそらく死者だ。だけど祖母にとって、もう二度と会えないと諦めていた理由は、その人が死んだからではない。その人がいた場所へ、自分が赴くことができなくなったからだ。だから、モニター越しに機械的に映された、諦めた時から変わらない場所を見た瞬間、その諦めは容易に解凍される。


月並みな言い方かもしれないけど、死んだ人はだれかの記憶の中で生き続ける。しかしその記憶さえ、不変ではない。だからこそ私たちは死者の記憶を、確かにそこにあり続けそうな場所やモノに結びつけるのかもしれない。私にとってのそれは、母の実家へいたる急な坂道だ。これからあの坂は、私が私の祖母を思い出す場所になる。


自分の記憶のうつろいやすさを棚に上げ、はなはだ都合のいいことだと思うけど、どうかあの坂道は変わることなく、あの場所にあってほしい。孫は勝手ながらそう願うのです。おばあちゃん、また会いましょう。


   12916        0        255
03月14日

シャープのツイッター @SHARP_JP です。ツイッターIDの横っちょに青いマークが付いているから、どうやら私は公式アカウントなんだと思います。今回はマンガの寸評ではなく逸脱編として、先日たらればさんと浅生鴨さんと私で「SNS公式アカウントってなんなん?」ということを、人前でお話した夜を振り返ろうと思います。

たらればさんが司会、浅生鴨さんと私が質問にとつとつと思うところを語るというかたちで進行したイベント内容は、(ほぼ)全文書き起こしというかたちで、公開がはじまっています。

https://corkbooks.com/users/tarareba722

またあの日は、マンガ家さんも会場に聴衆として集まってくださり、会場のやりとりをマンガ化して記録するという、実にネットのトキワ荘たるコルクBooksらしい試みも行われました。その時に描かれたマンガはこちらにまとまっています(なぜか打ち上げの席でした私のカレー話もあるけど)。

https://corkbooks.com/stories/?id=114

われわれの話が、マンガ家さんごとの視点や問題意識でエディットされ、絵として記録されている。あらためて読むとスラスラと頭に入ってきて、マンガが記録をいかにわかりやすく、だれかに伝えることを助けるのか、痛感させられます。ちまちました文字と見えない力関係を配慮する、議事録係を押し付けられがちな会社員の方なら、マンガの記録力に無限の可能性を感じるかもしれません。もう会議の議事録とか、マンガでよくない?

それはさておき、SNS公式アカウントNightの様子です。たとえば、うえはらけいたさんによるこちらのマンガ記録。


SNSマッチョ達による夜会(うえはらけいた 著)

多分にデフォルメされたわれわれの姿もおもしろいですが、そもそも企業がSNSをやる意味を、「モノを売る」とか「メディアを作る」といった常識から離れ、いやむしろ、そのような常識に批評的な立場から考えていたことがよく解説されています。

つまりマーケティングとかプロモーション、宣伝広告といった、いかに多くの人に仕掛け、エサを撒き、売上げを回収するかという、企業活動としてはごくありふれた行為とは真逆の行動を目指したということ。それを浅生鴨さんは「NHKの友達を作る」といい、私は「買ってない人でなく、もう買った人と仲よくする」と表現しました。

ところでここを読むみなさんは、企業の公式ツイッターを運営するとか、マーケティングと名のつく仕事とは、あまり関係のない方が大半だと思います。ですが一般論として、企業には「消費者にモノを売る」という一連の活動があり、その活動の中ではターゲットとか、キャンペーン、ストラテジーといった言葉が使われていることを、なんとなくご存知じゃないでしょうか。

「この新製品は30代独身男性をターゲットに」とか「年末のキャンペーンは総力をあげて」「この広告は若者を分析したストラテジーに基づき」といった物言いを見たり聞いたりしたことがあると思います。実際に私の職場でも、そのような言葉が飛び交い、そのような思考で仕事が進む。

ですが、ターゲット、キャンペーン、ストラテジーといった言葉は、もともと戦争用語であることは、あまり知られていません。ふだん仕事で使っている人でも、知らないことが多いかも。だから先ほどの例も元来の戦争用語に置き換えれば「この新製品は30代独身男性を攻撃目標に」とか「年末の軍事行動は総力をあげて」「この広告は若者を分析した戦略に基づき」と、とたんに物騒なことになる。

あまり言いたくはないけど、マーケティングや広告は、本来的に「狩猟」です。企業は常にあの手この手で人間を狩ろうとするわけで(実際はお客さんの財布あるいは時間を狩るわけですけど)、私も長らく狩りをすることを求められ、実際に攻撃的なことを考えながら仕事をしてきました。

けれど私は、狩猟に向いてない人間だったことにいつしか気付くのです。だれだって、自分が「狩られる」対象として狙われることを快く思う人はいない。だからそもそも、マーケティングや広告が快く思われる余地はもう、ない。一方で「狩る」側の行為にも暴力を感じてしまい、できればそれに加担したくない自分がいる(暴力性があるからこそ逆に興奮するタイプの人もいる)。私がプレデターなら、人間を狩ることに躊躇しないと思うけど、あいにく私は人間だ。人間が人間を狩ることに、私は後ろめたさを感じる。

そのような板挟みに悩んでいた時に出会ったのがSNSでした。実際はやれと言われてはじめたんだけど。だけどやっと私は、個人が個人のままフラットに言葉を交わすツイッターを前にした時、ある種のやましさから解放される予感がしたことを覚えている。

ようやく狩猟をやめられるかもしれないという予感を胸に、私はそれからずっと、狩らないマーケティングをツイッター上で模索してきた。ツイートがゆるいと称されるのも、宣伝する気がないと評されるのも、私にはやりたくないことがあったからこそ、選んでやってきたことだった。

だからあの日、浅生鴨さんが会場からの質問に答えるかたちで「SNSは農業だよ」と発言した時、私は私で衝撃を受けたのです。同時に「そう、そうなんだよ」と深い頷きを繰り返していた。綿密な打ち合わせもなくはじまったイベントが、期せずして最後、私がSNS公式アカウントで追求してきた「狩らない」「暴力がない」「戦争しない」コミュニケーションに、「農業」という名前が与えられ、深く安堵したのだ。勇気づけられたのだ。

SNSは農業。

企業であれ個人であれ、なにかを発信する人にとって、これほど着実な未来へ、希望が持てる言葉もないと思う。そろそろみんな、落ち着いて言葉を交わし、モノやコトの消費を考えようよ。私もツイッターで、気長に宣伝するから。

   8044        0        218
03月07日

みんな呟いてる? @SHARP_JP です。口から音が出る病気、と星野源は素敵に歌ったけど、実際のところモノローグ、いわゆる独り言は、口から音を出してしまえば、往々にして周囲から「ヤバい」認定を受けてしまいます。だからみんな、ひと知れず脳内でぶつぶつ呟いてきたはずですが、ツイッターの登場で人類の独り言は新たなステージに突入したように思うのです。


私たちはツイッターを自分の半脳内として解釈することで、独り言を文字で発するようになった。音で出すとヤバい独り言も短いテキストなら、実存をぎりぎり確保できる。それは独り言がいくばくかの社会性を獲得したと言えるかもしれなくて、もし世界の独り言の総量を計測できるなら、ここ10年の独り言増加率は、人類の有史以来、最大であるにちがいない。


もちろんツイッターでは、脳内にうずまく生の状態の言葉がそのまま吐き出されるわけでもなく(それをしてしまうとさすがにツイッターでもヤバい)、みんなある程度の脳内推敲が行われた上で、ツイートボタンをタップしているはず。


当たり前ですが、何人たりとも私の脳内を覗くことはできません。従来の脳内の独り言は、聴衆は自分だけという環境が保証されてこそ語りはじめられるものでした。しかしツイッターの独り言は、フォロワー0の鍵アカでもない限り、自分以外に聴衆がいることを了解しつつ、とつとつと語られている。


そう考えると、独り言のヤバいヤバくないは、オーディエンスの数というより、その場所の親密さが鍵なのかもしれない。自分の脳内は自分にとって最も親密な場所だし、フォロワーの存在がほのかに感じられるツイッターも、いまとなっては相当親密な場所だ。


ところで独り言は、いつも自分へ語りかけられるとはかぎらない。自分に向けて語ることもあれば、自分でないだれかにそっと語ることもある。独り言は親密な場所でなされるからこそ、親密なだれかに向けて、問わず語りされる。それならば私たちはいったいいつ、だれに、独り言を語りたくなるのだろう。


たぶん、独り言が切実に必要とされるのは、もうここにいない人の存在に思いを馳せる時ではないか。もうここにいない人とはつまり、死者か、過去の自分へ、なにか言うべきことがある時に、私たちは独り言というやり方で言葉を紡ぐのかもしれない。



母子家庭で育ったダメ息子から、オカンへ(ひびのし 著)


最初から最後までモノローグが続く作品です。母親にむけて、自分の近況が静かに語られていく中、なぜ独り言なのか、その理由が明らかになる。母親はもうここにいないのだ。


母親との思い出を回想するかたちでモノローグは続く。回想はやがて食事の思い出に移り、さまざまな場面で母親の手によるご飯が列挙されたところで、主人公の後悔と涙が大写しになる。こぼれる涙の先は手紙。母親への独り言は、届くことのない手紙だった。


独り言は元来、出すことのない手紙なのでしょう。そういえば手紙の言葉は、いつもどこか内省的で、親密だ。死者でも、過去の自分でも、もうここにいない相手へ呟く言葉は、そこに後悔があるとしても、いつだってやさしい。


ちなみにこのマンガは、#働いて良かった話 というお題の大賞作品です。こういう作品を拝見すると、コルクBooksというコミュニティは、優れたテーマを投げかける場所であり、いい評価を生み出す場所だと時おり思います。もしあなたが、だれかに語りかけたい独り言を抱えているなら、マンガというかたちでコルクBooksから手紙を出してみるのもいいかもしれませんよ。

   8710        0        93
02月28日

意固地な日もあるでしょう、@SHARP_JP です。たとえば「自分がどういう人間か」を示すために、「自分が好きなもの」を表明することがあると思います。初対面の人との会話は、好きな食べ物や好きな場所から滑り出すことが多いし、好きな作品やジャンルが列記されたツイッターのプロフィール欄なんかもよく目にします。


好きを表明すること。好きを推すこと。あなたの好きなものが、あなたを雄弁に物語るというのは、SNSで盛んにコミュニケーションする私たちにとって、さいきん特に真実味を増した法則だ。推しが尊いのは、推しの魅力をあなたが保証すると同時に、それを見出したあなたの魅力が、推しの光で逆照射されるからかもしれない。


そもそも好きを表明することは「だれかを傷つける」要素がない。ただただ平和なやり方で、だれかの未知の好きを開くかもしれない行為であって、もうそれだけでこんな世の中じゃ、立派に尊いではないかと、私なんかは思ったりする。


ただ一方で「自分がどういう人間か」を示すために「自分が嫌いなもの」を表明する場合もありますよね。はっきりと「これが嫌い」と宣言するまではいかなくとも、「私はそれを見ない・聞かない・関わらない」という言動やふるまいをすることで、自分がいかなる存在かを周囲にアピールした経験は、思春期をサバイブしたみなさんならひとつやふたつ、覚えがあると思います。


「おれはそれをしない」とふるまうことで「おれは迎合しない人間だ」と感じさせる。けっきょく中二病なんていうとわかりやすいかもしれないけど、私はある年代特有の意固地さというより、むしろ老いも若きも、自意識を持て余した人間の青い行為なんじゃないかと思うわけです。私もことあるごとに「スポーツをしない」と表明してしまうし。



俺はJ-POPを聴かない(ワタベヒツジ 著)



そこでこのマンガです。J-POPを聴かないという男性が登場する。いまどきJ-POPという名称も無効化したような気もしますが、少なくともかつては、洋楽と邦楽といった線引きが明確にあった時代がありました。おれは洋楽派と表明することで、主流ではない、オルタナティブな選択をする個性的な人間だと示すことができたのです。


そしてそのようなふるまいは、長く引きずることで、深く身体化しがちだ。関わらないもの(嫌いなもの)を表明しつづけることで、その人は名実ともに「かたくなな人」になる。周りと趣味を合わせるつもりもなかった、という作中のセリフに、彼のかたくなさがよく表れている。


だがそのかたくなな彼が、J-POPを聴いて涙を流す。前言撤回といったレベルじゃない。関わらないと表明し続けたものに、深く関わり、感情を揺さぶられるのだ。


だれかの推しにたやすくなびかないことをアイデンティティにしてきた人間が、翻ってその推しに心を寄せる。その様子を読む私は、推された音楽の魅力と、彼にとっての、それを推した人の魅力を同時に想像してしまう。


やがてマンガを読み終わる頃には、彼の固くて青い自意識を溶かすほどの恋愛の大きさと、失恋の痛みを思わざるをえない。もう一度読み返すと中盤のコマ、彼の履く靴がどう見てもダナーのブーツで、それが彼のストイックさをまた想像させる。私もダナーのブーツ、よく履くんだ。なんだか私まで泣けてくる。

   8050        0        58
02月21日

あくせく働く @SHARP_JP です。みなさんはいつも、どんな心持ちで働いていますか。ちなみに私は褒められると伸びるタイプですし、だいたいいつも褒めてほしい。


褒められると伸びるタイプとはよく聞く言葉ですが、よほどのことがない限り、怒られることを積極的に求める人間なんていないわけで、これほど「私は褒められると伸びるタイプです」と表明する人を見かけるということは、それだけ会社や社会が褒めない場所だという裏返しかもしれなくて、そう考えると暗澹たる気持ちになったりする。


一方でだれかを伸ばす責務を負う人は、自分が褒めるタイプか叱るタイプか表明すること自体、指導の手の内を明かすようで難しいことかと思います。私は指導する立場の経験がほとんどないので、あくまで憶測だけど。


ただ管理や指導というお題目が掲げられる世界において、叱るという行為には、叱る・叱られる時間や関係が無限に続くようなケースがあって、それを目撃するたび、いくらなんでもと思う時がある。


たとえば野球でもサッカーでも、部活の監督が試合に負けた生徒に向かって「なぜ負けたのか」と問いただす場面。おそらく生徒は「練習不足でした」と答える。すると監督は「なぜ練習が不足したのか」さらに問う。「気の緩みが」「なぜ緩むのか」「真剣さが足らず」「なぜそう思う」という風に、終わりが見えない。そしてたいていは根性論な禅問答に突き進む。


問い詰めるという行為は、叱責から永遠に抜け出させない構造を持ち、時に私はそれをとても悪意に満ちたものに感じる。問いの答えにさらに問いを重ねるタイプの指導は、監督を上司に、選手を部下に置き換えた場合、その生々しさがいっそう現実味を帯びる人も多いのではないだろうか。


だから自戒を込めて思うのですが、問い詰めるという行為はそれ自体に暴力をはらむものだから、くれぐれも自覚しなければいけないし、そんなことならお互い、褒めたり褒められたりする方がずっといいよね。



緊張の先輩(しんぺー 著)




このマンガの主人公も叱られています。叱る人は威勢のいい先輩で、バイト中は厳しい監視のもと、接客業のさまざまな配慮に指導が入る。挙げ句の果てには、先輩が引退後もバイトを続けるように約束させられた。


主人公は先輩がいなくなった職場でがんばり続けて2年。厳しかった先輩がふいにお店を訪れる。そこで先輩は後輩の働きぶりを見て、立派に先輩となった後輩を、ようやく「見違えた」と褒めてくれるのだ。


その後のコマ。ふるえるほどの感情を過去の自分へ伝えようとするような、内向きの喜び。喜びを発散するのでなく、噛みしめるような表情。人がほんとうに褒められたと実感した時、喜びは外に爆発しないのかもしれない。それがよく表されたラストカットだ。


思い返せばこの厳しい先輩は、決して主人公を問い詰めなかった。その場の適切なふるまいを、怖いけど細やかに教えていただけだ。なにより先輩の視線はいつも、結果ではなく、後輩の考え方と過程を見ていた。先輩の叱りには、まなざしがあったのだ。その事実を彼は一気に体感できたからこそ、褒められた喜びは過去の自分を回収するかのように、じんじんと内側に響いたのだろう。


ささやかでも、がんばった時間を遡るような褒めがあれば、それを糧にまた未来をがんばれることを、私たちは知っている。そして未来をがんばれるという確信こそが、褒められて伸びた自分の伸び代なのだと、年中褒められたい私は思うのです。


そんなことに思いを巡らせる作品を描いたしんぺーさん、あなたはすごい。また次の作品を楽しみにしています。

   8952        1        64
02月14日

みなさん正気を保っていますか、@SHARP_JP です。なんの因果か、この文章が掲載されるのがまさに2月14日、そうバレンタイン。おもに日本において、ヒューマンであるところのオスが自意識を知覚過敏にする日として広く知られています。知覚過敏はほとんどの場合、気のせいで終わることもまた、広く知られるところである。


一方で最近、バレンタインに対する世間の認識も変わりつつあるような気がしませんか。義理チョコをやめよう、というゴディバの広告が去年注目されたのも印象的だったし、今年は女性に向けたバレンタイン(という商戦)広告にさまざまな批判が寄せられたのを目にすると、たとえ恋愛といった普遍的な行為でも、そこにマーケティングの影がちらつけば、どうやらもう共感を得られない。ジェンダーな偏差のあるメッセージや企画なら、なおさら受け入れがたい時代になったというか、ようやくなりつつあると思ったりもします。


そういう傾向は、社会的な正しさという観点から有意義なのはもちろんだけど、毎年この日に自意識の知覚過敏を繰り返してきたわれわれにとっても、歓迎すべきことだとはいえないか。「万が一」という、文字どおりほぼゼロな可能性にさいなまれ、自分に向けられるすべての視線と会話に「もしかして」という検索結果が表示される1日から、ようやく自由になれるとしたら、その開放感はなかなかのものだろうと思う。


バレンタインデーのお話(仲曽良ハミ 著)




非モテチョコレートバイアス〜バレンタインの黒歴史〜(にしもとのりあき 著)



バレンタインからの開放感とか、お前はいったいなにを言っているのだと思う方は、このマンガを続けて読んでほしい。小学校の低学年から高学年、中学から高校、そして大人になるまで、ある一定層の男子は、連綿と2月14日という1日をこうやって自意識過剰に過ごしてきたのだ。思春期だからと片付ける人もいるけど、多感な時期をとうに過ぎた、いい年した大人だって内心は、バレンタインは知覚過敏。にしもとさんのマンガのように、肥大する自意識を隠せば隠すほど、われわれの強がる唇はピノキオみたく、とんがっていくのだ。


そしてまた人は、仲曽良ハミさんが描く小学生のように、選ばれない自分を救う方法を、案外たくさん持ち合わせていない。未熟な時は特に、私はそれを最初から欲望していなかった、というフェイクニュースを自分に刷り込むしかないのだ。だけど「万が一」と「もしかして」の呪いは存外に強くて、前年の「気のせいだった」という失敗は、なぜか反省されることなく繰り返されてしまう。


それを見栄といってしまうのはかんたんだ。けれど「選ばれなかったけどはじめから興味ねーし」という繰り返しは、見えない傷を自分に刻み続けることかもしれなくて、そういう自己肯定を遠くへ追いやる経験を、わざわざ同じ日に、みんないっせいに味わわされなくてもいいのにと、思うところはある。


選ばれたり選ばれなかったり、選んだり選ばなかったりは、生きる中でつきないことです。けれどそれはあくまで私と相手の間のことで、そのパーソナルな結果が可視化されてしまうのは、やっぱり少し残酷じゃないか。そういうことを、この2作を読んで笑いながらもふと考えてしまった。ぜんぶ、バレンタインのせいだ。チョコレートはいつだって、甘くて苦くておいしいよね。

   12823        0        192
02月07日

@SHARP_JP です。立春が過ぎました。さまざまな受験の時節です。入学でも、資格でも、受験生各位におかれましては、どうかがんばってください。私も私の持ち場で、コツコツがんばりますので。


ところで私がなにをコツコツがんばっているか、大雑把に言うとそれは「広告」です。身も蓋もない言い方をすれば「広告でいかに多くモノを買ってもらうか」をがんばるわけですが、実際のところ、私はそこまでがんばる気がない。その広告が、届け方と内容の工夫によって、伝えたい人に伝わるか、あるいは伝えてほしいと思っている人に伝わるかが問題で、運よく伝わった人にはせめて、どこか心を動かすものであってほしい、と願うのが関の山。


とくに家電なんて、新たに買うより買い替えがほとんどだし、10年に一度といったペースでようやく買うぞ、という一大事なわけです。冷蔵庫や洗濯機の買い替えなんて、腰の重い、できれば避けたいタスクですらある。だからドヤ顔した広告ごときで、多くの人の欲望を喚起し、ホイホイと買い物へ促せるような甘いものではないと思います。


だからこそ、私の仕事はなによりもまず、その情報を伝えてほしいと思う人に伝わる努力をした上で、その次にようやく、少しでも多く売りたい儲けたいという、われわれの思惑の線上にいる人へ、できるだけ伝わるように心と予算を砕くべきだ。


マーケティングに基づいて作られる製品には必ず、30代女性向けとか、都市に暮らす共働き向けといった、ターゲットが存在するのに、「広告をする側が伝えたいと狙う人」を後回しにして「その広告を伝えてほしいと思う人」に伝えるという順序は、一見逆に思えます。けれどたとえば、消臭機能を強化した空気清浄機を抱えて、ペットと楽しく暮らす人と、花粉で鼻をグズグズさせている人を目の前にすれば、どちらを優先してプレゼンすべきか、自ずと理解できませんか。少なくとも私は、ペットの消臭ニーズは理屈で理解できるけど、まずは目の前にある悩みへ、役に立ちたい。


伝えて心を動かすのが広告の至上命題なら、伝えてほしいと思っている人、伝えると喜んでもらえる人、つまり伝わって心が動いてくれる人をなによりも優先すべきだ。たとえそのような人が、われわれがターゲットだと勝手に狙う層より少なくとも、まずは喜ぶ人に届くよう工夫して努力する。なぜならその先にはお客さんの笑顔が、数はわずかでも確かな信頼と共感が、われわれの製品に還ってくるから。


そういうことを考えている時、この作品に出会いました。



病気で学校に行けなかった私が漫画家の道を目指すまで(月本 千景 著)




まだ物語は端緒についたところですし、これからとても重い内容になることはひしひしと伝わってきます。おそらく作者の月本さんは、自分の中の中を覗き込み、淀んだ記憶と感情をすくい上げ、ジリジリと表現を積み上げるという、つらいプロセスに向きあうのだと思います。そしてそれはとても孤独な時間でもある。


まだ先がある物語に、しかも先に進めるのに相当な気力が必要であろう物語に、私がとやかく言うためらいも覚えました。だけど1つだけ、どうしてもエールをおくりたい点があるのです。作品後半、月本さんは編集者から「不登校のせいで多くの人と共有できる物語が作れない」懸念を表明されます。その後、別の編集者(たぶんコルクの佐渡島さんですよね)から、その懸念はきっぱりと打ち消される。私も一読して、その懸念を「ちがう、そうじゃない」と言いたくてしかたなかった。


たぶんマンガも、伝える順番が逆なのだと思うのです。作品とは、広く共感を得るために、多くの人に伝わるものをあらかじめ描くのではない。むしろせまくせまく、その物語を届けてほしいと願う、ごく限られた人に向けて語られることからはじまるのではないか。芸術や表現は、できるだけ大きな投網を投げて、かかる魚の数を狙うものではなく、モリで1匹と対峙するように産み出されるものでないのか。なぜならそこからしか、だれかの心を強烈に動かすことはできないから。


そして、あなたの物語を伝えてほしいと切実に願う人は、いつも必ず近くにいる。だれよりも伝えてほしいと願うのは、それを語ろうと挑むあなた自身の中にいる、過去のあなたなのだと思います。どうか諦めずに、あなたの中を覗きこみ、じっくりと物語を紡いでください。そしてできれば2番目に、私へそっと届けてほしい。そのころにはきっと、伝えてほしいと思う人が列をなしているだろうけど。

   9668        1        195
01月31日

みなさんインフルだいじょうぶですか、@SHARP_JP です。たとえ予防接種をしていても、やっぱり戦々恐々としてしまいますよね。こんな時、自分がウイルスにだんだん包囲されていく光景をイメージしてしまう。ウイルスなんて目に見えないし、あくまでイメージですが。きょうはそういう、自分で自分をイメージする、自己を客観視する話をしたいのです。


主観の対極は客観です。自分が自分のまま、感じたり思ったりしたことを述べるのが主観なら、客観は自分を別の自分が眺めつつ、別の自分が自分を描写することだと言えるのかも。ここで仮に自己客観性という言葉を置けば、それは自分の主観、いわばファースト自分を、セカンド自分が観察して描写する、あるいはファースト自分を観察するセカンド自分を含めてサード自分が描写する、あるいはフォース自分やフィフス自分が現れて観察をはじめるといった、自我が3階建て、4階建てと高層化する構造にあると考えられないか。5階建てくらいになると発狂しそうだけど。


難しく言わずとも、自分を別の自分が見つめるというようなことは、だれでも日常的に行っている行為だと思うのですが、ここで私が問題にしたいのは、その「描写の仕方」です。たとえばいろいろ拗らせた私なぞ、自意識過剰ゆえの自己客観性増し増しな人間ですから、頼んでもいないのに自分を別の自分が観察しがちです。なんならフォース自分くらいまでが降臨し、日常のあらゆる局面で、右往左往する私の様子や心理をくどくど描写しやがるのですが、その描写はいつも「語り」として現れる。


会議で。パーティーで。買い物で。現実になんとか対処しようと奮闘する私の脳内は、別の私が私を描写する言葉で溢れかえる。恥をかかないように辻褄をあわせる私。場で浮かないふるまいを模索する私。いあわせた人の間の空気を乱さないよう取り繕う私。対人せざるをえないあらゆる局面で必死な私を、もうひとりの私やそのむこうにいる私が次々とテキストにしていく。私の行動や心理を実況するツイートと、そのツイートを引用するツイート、さらにツイートに対するエアリプで脳内TLがいっぱいになる、と言えばわかってもらえるだろうか。


そして語りによる自己客観性は、ある弊害をもたらす。自分がビジュアルで見えなくなるのだ。自分を別の自分が描写する時に、映像でもって客観できる人にはわからないと思うけど、自分を語りによって平面的にしか描写できない私は、文脈に詳しくなるばかりで、自分がいま他人にどう見えているのかがわからない。つまり自己を客観した末の「正解」がわからないのだ。


ところでこの弊害が致命傷になる時がある。それはファッション。TPOにあわせてなにを着るべきか、どういう意図でその服を選ぶのか、文脈としてのファッションはかろうじて理解できるものの、いつまでたっても自分に似合う服がわからない。自分をビジュアルで客観できないから。自意識過剰な人間にとって、これはなかなか致命的な問題だと思うのです。



それ聞く…?(ワタベヒツジ 著)




で、ですよ。この問題作です。ほんとにこれ、私も声を大にして言いたい。


…それ聞く?


たぶんこの先輩だって、憎からず思う後輩がいる飲み会だから、ここはほんのり清潔感を感じさせるカーディガンで行くべきだと、自分を客観視したはずなんですよ。場と文脈においては、ベストなソリューションを導き出していた。だけど。だけど、その服を着た自分がビジュアルでイメージできないんです。自分を客観する時の、別の自分がドローンじゃないんです。ツイッタラーなんです。だからその服の選択が文脈的に正しくとも、それが自分に似合うかが見えないのだ。そして色を致命的に間違ってしまう。私にはわかる。わかるぞ。


「なんでカーディガンその色にしたんですか」と残酷な質問をしたこの後輩のように、惜しいところでいちいち間違うわれわれのようなタイプがさっぱりわからないという人は、もう一度この文章をはじめから読んでください。わかるまでマンガを繰り返し読んで。頼む。お願いします。そしてなんか似合ってない服を見かけたら、写真に撮ってそっとLINEで送って。アドバイスといっしょに。

   13803        2        92
01月24日

きょうもきょうとて能面のような顔して呟く @SHARP_JP です。あらためて言う必要もないですが、私はふだん家電メーカーの公式アカウントを運営しています。もはや職場がツイッターと化して、長い時間が経過してしまった。


世間ではSNSというツール、とりわけツイッターの功罪がよく語られますが、やれ炎上だフェイクニュースだと、どちらかというと罪の側面がフォーカスされることが多い印象です。もちろんそういう側面は由々しき問題だし、私なんて時にはその罪に直面せざるをえない当事者だったりもするのですが、それにしたって、ツイッターがあってよかったと思えることも、私たちの生活にたくさんあるはず。


たとえばツイッターによって、われわれは空を見上げることが圧倒的に増えたと思うのです。数十年に一度とかいう、天体の蝕や流星群を目撃できそうなチャンスがTLに流れる。金星や満月の美しい巡りをツイートで知る。虹や夕焼けが現れれば、友だちがこぞって写真をシェアする。私たちはそのたびに、ふとスマホから顔を上げ、あわよくばと自分もカメラを空に構える。そして束の間、あごをクイッと上げたまま、静かな時間を過ごすのだ。


私たちが見上げるのは、そびえ立つオフィスビルやタワーマンションだけではない。ツイッターのおかげで天気や星をタイムリーに知ることができるようになったわれわれは、空のできごとを見逃さなくなった。それは日々のうつろいにほんの少し、やさしい上下の奥行きをもたらしたように思う。スーパームーンなんて言葉を知ったのも、ツイッターからだ。


空を見上げる行為は、人類が脈々と繰り返してきたルーティーンかもしれないけど、方角を知るとか未来を占うとか、必要や不安に迫られて見るのではなく、ただ空のできごとを美しい時間として、みんなで共有できるようになったことは、昔の人がうらやむほどに素敵なことじゃないだろうか。



帰り道、影絵の街で見つけたよ(やじま けんじ 著)




空の美しいできごとを目にする幸福は、ここにも語られている。空を見上げるのはクマだけど。しかも食いしん坊の。クマにしろ人にしろ、たとえ帰り道がひとりぼっちだったとしても、空にきれいな星を見つけたら、それは立派なご褒美だ。特に冬。日の入りがはやい冬は、モノクロな景色や時間が多くなるけど、モノクロだからこそ、星のまたたきが際立つ。


ふと足を止め、空を見上げたクマの顔に続く、影絵のような街並みと空と星のラストのコマを眺めていると、どこか知らない世界の寓話のようでいて、きのうの私の帰り道のようでいて、しんしんと不思議な感情が湧いてくる。


それにしても、モノクロの帰り道でクマが食べる肉まんのおいしそうな感じといったら。やじまさんのクマの魅力については、私もそうとうやられているのですが、それはまた別の機会に。寒い寒い言いながら、肉まん食べたい。ファミマの肉まん、すげーうまい。

   9779        2        78
01月17日

自分の体重を直視できますか、 @SHARP_JP です。運動とか体型とか筋肉とか、日頃はフィジカルとは無縁な私のTLでも、お正月が明けると、太った、体重が、ダイエットを、といったワードが目につきます。たぶんこの時期と半袖解禁の季節が、自分のフォルムや自分にかかる重力について、向き合わざるをえないタイミングなんでしょうね。


私はそもそも自分の身体を信用していないというか、どちらかというと脳の方を信用する、過度にファンタジー寄りの人間だと思うので、ダイエットという行為には縁がない。縁がないと言っても、身体を直視しないだけで、ダイエットや運動をした方がよろしいのではという事実は、現実に横たわったままである。見ないだけで、現実はいつも厳しい。だからまた脳へ逃げ込む。内向きの円環の完成だ。


そしてこういう、脳に映るビジョンを優先する生き方は、一般に言うオタク的な生き方と相性がいい。言い換えると、推しと生きるために最適化された体質といえば、どなたか共感してもらえるだろうか。




できる!妄想ダイエット(珠虫さとり 著)




たぶん作者さんも、推し体質の方なのでしょう。「ノー推し、ノーライフ」な人物が、日常生活における、安易なダイエット法に警鐘を鳴らす。そして推しによるダイエットハックが真剣に語られる。その真剣さが最終的にタニタさんへの叫びになるくだりに、笑いを堪えることができない。


ですがその叫びはタニタさんに任せることにして、この作品で私が推したいのは、各コマで繰り出される熱いパンチラインの数々です。パンチラインというのはヒップホップの用語で、曲のラップの中でいちばん印象的なフレーズのことを言います。


「オタクの妄想力をなめてはいけない」「推しは同時に生命力の燃料ともなる」「テンション天元突破」「自分は主人公と共に選ばれし者と思い込み」「さそり座の女は倒した」「自分でも驚くほどの腹筋からくるロングトーン」「こんな残酷なダイエットがあってたまるか」


ここに書き起こすだけでなんて魅力的な字面。私がコピーライターなら教えを請いたいくらいだ。教えを請うても、推しの尊さを力説されるだけだろうけど。それにしても、推しを抱えた人たちが選ぶ言葉は、なぜいつも魅力的なのだろう。


容易に思い浮かぶのは、ツイッターの影響でしょうか。ただその点においても、限られた文字数ゆえに文意や表現が濃縮されるというより、むしろいくつものツイートを重ねて記述していく、発言数の自由さやフォロワーとの関係性が関わっているような気がする。たぶん私が魅力に感じるのは、熱烈に推しを抱いた自己を肯定しつつ、それでもなおもう一度、徹底的に自己を客観視して語ろうとする意思、知性なのかもしれない。それは人類がそれぞれの推しを普及するため民主的に作り上げられた、一種の文化的マナーともいえるのでは。知らんけど。


いずれにしろ、私はなにかを強烈に好きな人が好きだ。そして、なにかを強烈に好きな自分と、その自分を客観的に眺める自分を同時に抱えながら、好きを穏やかに、時には自虐を交えて語ろうとする人が、私は好きなんだと思う。この作者さんのような作品を、マンガでもテキストでも、私はいつまでも享受したい。好きの熱量が冷静さと配慮をもって伝わる世界、素敵だと思いませんか。

   11435        0        13
01月10日

あけましておめでとうございました、 @SHARP_JP です。本年もやんわりよろしくお願いします。お正月を過ぎ、次の季節の行事といえば成人式です。荒れる荒れると毎年言われ続け、もはやどれほど荒れるか期待すらされる、なんだか不憫な成人式。ちなみに私は、自分の成人式に出なかったはず。どうもそのあたりの記憶が定かでなく、式に出たもののあまりにしんどくて思い出を消した、という可能性も否定できないのですが。


それにしても選挙権が18歳になったのに、成人式はいまだ20歳の年、というのもチグハグな気もするのですが、当事者のみなさんはどうなんだろう。選挙という社会の仕組みに初めて参加しつつ、ゆるやかに大人の称号を獲得した方が、心の準備もできていいのでしょうか。どちらにしろ、ある境目から突然、大人としてカウントされるのも、唐突な話ではある。



ハタチオメ3(ちえむ 著)




そんな成人式のお話です。成人式で顔を合わすのは言わずもがな、いつかどこかで空間を共にした、同級生なわけですよね。しばらく会わなかった気恥ずかしさやら、驚くほど変貌を遂げた友人の眩しさやら、やっと解放されたクラスの序列に再会するやら、成人式はそれぞれにとって、悲喜こもごもの場所なのでしょう。


飲み会のビール瓶のように「さあ君たちは今から大人だ」とぐいぐい距離を詰めてくる成人式というセレモニーが、大人未満だったかつての人間関係や息苦しさをありありと再生してしまうというのも、なんだか残酷な気もします。その残酷さが大人の入り口だぞと言われても、それはそれで苦々しい。


この作品で成人式に着物を着てきた彼女も、成人式の会場前でかつての同級生がキラキラする様と自分を比べてしまう。そして少し、黒い気持ちになる。他人は他人、自分は自分、と割り切れるのが大人かもしれないけど、そんなこと、成人式の現場でいきなり獲得できるものでもない。第一、大人の私でもそんな割り切り、できたことなど一度もない。


だけどここで、着物の彼女は別の角度で大人に飛躍する。成人式の着物の準備をせっせと行う、母親のことを思い出すのだ。娘の成人式を喜ぶ母親の顔をスマホ越しに見て、彼女は自身の20年でなく、母親が母親として成人した20年に思いを馳せる。それはたとえ肉親だとしても、他者の過去を思いやる行為だ。


同級生と比べて落ちこもうが、キラキラした場所から逃げ出したくなろうが、他者の時間を想像できる彼女は、もう立派な大人だと思う。そして自分のことはいったん保留してでも、母親の20年間を「ハタチオメ」と祝福できた彼女は、まさにその瞬間、成人を迎えたのではないか。


一方自分を振り返れば、ハタチどころか現在進行形で、大人としての心構えが整っているとはとうてい言えず、うつむくばかりだ。いつも他人と比べてしまうし。キラキラした場所苦手だし。だけど私だってかろうじて大人だから、着物の彼女のように、他者の時間を想像し、他者を祝福することくらいはできる。


新成人のみなさん、おめでとう。ようこそ、こちら側へ。

   30319        2        18
2018年12月27日

年の瀬ですね、 @SHARP_JP です。みなさんの師は走ってますか。仕事納めとか軽々しく言うなと、苛立ちを覚える程度には私も追い詰められています。世間も会社も「納まるか納まらないかはあなた次第」みたいな顔をしますが、たいていの仕事なんて、自分の判断で片付けられたら苦労しない。仕事が納まるか納まらないかは、いつも相手次第だ。


仕事でも、生活でも、なんならツイッターでも。上司や取引先、恋人や友人知人、フォロワーと、私たちのアクションの向こう側には決まって相手がいる。そして時には「ああ、この人とはどうやら話が通じないぞ」というような相手に出くわすこと、ありませんか。


話が通じないと言っても、交わす言語や文法が異なるわけでもなく、むしろ会話のキャッチボールはできるものの、ラリーすればするほど、相手の真意が底抜けになる感覚。第三者がそのキャッチボールを眺める限り、破綻はないように見えるが、ひたすらボールを受けては返す当事者は、相手から投げかけられるあいさつも、返されるツッコミも、切り出される話題も、どこかいびつで違和感が溜まる一方。進めば進むほど会話は上滑り、相手への理解が1ミリも深まらない。そんな感じ。


そういう、文意はかろうじて破綻してはいないものの、おそろしく的を得ない指摘を繰り返すコミュニケーション、あれはいったいなんなのだろう。




干支面接(小山コータロー 著)



またヤバいマンガがやってきた。私が言う、おそろしく上滑りして的を得ない会話が、まさにここで行われているやりとりだ。干支の新メンバー募集と聞いてやってきた小林。人間だ。質問に小林はさわやかに答える。面接者である辰の意見に、流れるように逆提案する小林。ついには猿の面接官へ、面接される側なのに質問を許可する小林。あげく、錚々たる干支のメンバーに根源的なツッコミを入れる小林。人間だ。


小林はヤバい。妙に好青年な外見に、明るい表情を崩さない。だが明らかに彼の会話は、面接を1ミリも進めない。終わりが見えない面接。帰ろうとしない小林。なにが恐ろしいかって、面接者の発言→小林の回答、それを2コマずつ切り取れば、それなりにコミュニケーションがボケとツッコミというかたちで成立しているのだ。だがこれを冒頭から一連の16コマで見ると、会話は最初から最後まで上滑りしている。


私はここで既視感を覚える。この上滑り、FF外から失礼します、ではじまるツイッターのあれだ。私がいつもリプ欄で直面するやつ。いわゆるクソリプが繰り広げるツイッターのスレッドをマンガ化したら、まさにこの作品になるんじゃないか。かろうじて意味が通うボケとツッコミは成立しつつも、ぬぐいようのない不穏な空気をまとう会話。これだ。この感じ。違和感コメディクリエイター 小山コータローさんは、とうとうクソリプの空気感をマンガ化するのに成功したのだ。


そしてなぜか私は、この不穏な感じが嫌いではない。クソリプに遭遇するたびに私は、いつも少し、わくわくしてしまう。その理由はうまく説明できないのだけど、意味と無意味がゆらゆらする危うい開放感に、私は自由を感じているのかもしれない。


さあ、きょうも私のツイートのどこかで、クソリプの応酬が繰り広げられる。みなさん、よいお年を。来年の干支は亥ですね。


   14264        0        17
2018年12月20日

あらためましてシャープの公式ツイッターを運営しております、 @SHARP_JP です。おはようございます、あるいはこんにちは、もしくはこんばんは。仕事柄、バズるツイートのコツを尋ねられることも多く、その度にあいまいな顔でお茶を濁すのですが、実際のところそのようなコツは持ち合わせておりません。


とはいってもバズるコツ、あるにはあると思います。みんながスマホを見る時間帯にツイートするとか、絵文字を使いましょうとか。ですが、私が気にしていることは別の場所にあって、それはバズではなく「離脱されないか」という点です。


つまり「こいつの話を聞き続けてやろう」と思ってもらうために、いかに工夫するか。そもそも私は企業アカウントなので、しょせんは宣伝。結局は自己アピール。この場合は自社アピールか。そして企業の自己アピールなんぞ、ネットにいるみなさんには聞く義理がない。友だちや好きなモノに囲まれるのがSNSなんですから、当たり前ですよね。それでもなお、フォローしてツイートを見てやろうと思い続けてもらうためには、注意も努力もたくさん必要なのですが、まずはひとつ。話し方の問題です。


人に語りかける中で「こいつの話を聞き続けてやろう」と離脱されないためのポイントは「次に予想される言葉を言わない」ことだと私は考えています。常套句やクリシェを使わない。こういう話の流れの時に続くおなじみの言葉、どこかで聞いたことあるフレーズ、何度も繰り返された言い回しを使わないぞ、というマイルール。


つまらない人のつまらない話はなぜつまらないか。いつもの会議、偉い人の冒頭や締めの言葉、あるいは中学校の校長先生の朝礼、またはありがちな広告を思い出してもらうと、みなさんもわかってもらえると思う。「この成績に油断せず気を引き締めろ」「お客様目線で取り組め」「3学期ははやいぞ」「規則正しい生活を心掛けよ」「フォロー&RTで当たる」「くわしくはウェブで」いつもどこかで繰り返されてきたフレーズは、正論ゆえに間違いはないけど、多用すると聞く側は傾けていた耳を閉じる。なぜなら、もう聞かなくてもわかるから。それは決定的にコミュニケーションを殺す。




面接あるある(コジママユコ 著)




胸が苦しくなる作品です。おそらく作者のコジママユコさんも就活で実際に苦労されたのでしょう。このエピソードが実話でなくとも、自分が削られるような、自分が匿名に押し込まれるような、やりきれない気持ちになった経験があるのだと思う。この作品を読み、やりきれない気持ちを思い出す人が多そうなのも、またやりきれない気持ちになる。


就活といえば「どこかで聞いたことある」「次になにを言うか予想できる」言葉が、この世でもっとも交わされる場所なのかもしれない。横並びする志望動機、似たようなエピソード。クローン化する私の長所短所。


「就活とはそういう風にするものだ」となかば脅迫的に刷り込まれる世界では、違う服装、違う髪型を選ぶのは、とても勇気がいることです。私もそうだった。だけどせめて、選ぶ人間と選ばれる人間が交わす会話くらい、テンプレの脅迫から解放されてもいいのにと、自分の就活を振り返ってみても思うのです。話す方も聞く方も、どこかでだれかが言ってたことを、何回も何回も交換しあうだけ。両者が、傾けるべき耳を閉じ合う場所。そこにあるのは、ただのディスコミュニケーションだ。


なんとか就職した場所で、ようやくテンプレでない言葉をかけられた主人公は、就活の過程で自分のことがまったく伝わっていなかったことを知る。「人を選ぶことはわからないねぇ」という会社の生身の言葉で、ようやく就活のディスコミュニケーションが暴かれるのだ。ひとりトイレで泣く彼女の絶望に、私はかける言葉も見つからない。


もうそろそろ、こんな虚無、大人の側から止めようよ。

   44771        1        231
2018年12月13日

さてさて苦々しい季節になって来ました、クリスマスに何の価値も見出さないマン(詳しくは前回の寸評を) @SHARP_JP です。いかがお過ごしもなにもないですよね。ただの師走です。これは私が歳をとったからか、それとも時代が内省的になったのか、いまいちよくわかりませんが、さいきんクリスマスというイベントが、さほどもて囃されなくなった気がしませんか。しませんか。そうですか。


平成最後のクリスマスというような煽りも聞かないし、かつてはマーケティングとタッグを組み、われわれにモテるモテないを突きつけてきた、扇情的な要素が効力を失いつつあるのかなとも思うものの、それでもやっぱり、クリスマスはリア充の象徴だ。それはまた、非リア充の呪詛が溜め込まれる日でもある。ただね、私はだんだん思うのです。リア充と非リア充は、はたして対立する属性なのか。けっきょくのところ、みんな非リア充を基礎に、毎日ささやかなリア充を積み立てたり、リア充を目指しているだけなんじゃないかと。


みなさん、Facebookやインスタ見ますか。そこでなにを見てますか。私なんか時々、友人知人の近況に詳しくなりすぎて、空恐ろしくなる時があります。あの人がきのう食ったラーメン、きょう食ったカレー。同僚がこぞって乾杯するなにかの打ち上げや呑み会。アイツが行った週末のBBQ。ラン。キャンプ。お買い物。私の脳には止めどなく友人知人のリア充が流れ込んでくる。そしてそれはたいてい、いやほとんどの場合、「私以外」が充している様子なのだ。BBQの集合写真も、乾杯の写真も、ランチの皿の向こう側にも、私はいない。


SNSとくくってしまうと乱暴かもしれないけど、友人知人とかんたんに繋がるツールは、結果的に「自身の不在」を浮き彫りにしたのではないか。そもそもスマホが、ひとりっきりで使うものだ。スマホでSNSを見ることは、自分の孤独を覗き込むことのような気さえしてくる。たぶん、スマホとSNSを手にしたわれわれは、全員残らず、心が非リア充になってしまったのだ。いやまあ極論なんですけど。


生命力吸収スイッチ(にしもとのりあき 著)


みなさん、最後まで読みましたよね。どうですか、共感しますか。私はします。するさ。冒頭の生命を感じさせない目が、自分を消さざるをえないあの日を雄弁に物語る。だが主人公は、電話でペコペコ謝る会社員を目に捉えたことをきっかけに、ターゲットであるリア充から目をそらし、街のあちらこちら、各自の持ち場で淡々と奮闘する人々の存在に気づく。


だれかのためにもくもくと働く姿に、いつしか主人公は自分を重ね、仲間を応援する気持ちでエールを送る。みんながんばってる。ひとりじゃない。さびしくない。ふつうはここで物語は終わる。私もいい話を読ませてもらったと、ここまで読んだ時間の回収にかかる。


だが終わらない。リア充と非リア充の話はそんな大団円はしない。電話で詰められていた気の毒な会社員に、待ち人が現れる。おそらく恋人だ。彼はあっち側だった。主人公の目は2度死ぬ。そのリアリティ。リア充をカウントする主人公の仕事は、世界を2つの属性に仕分けることだ。だけど世界はたぶん、そう単純でない。同じ人間の中でも、リア充と非リア充は共存しえるし、なんなら瞬間的に入れ替わることだってある。たぶんそれがスマホを手にした、いまのわれわれの姿なのかも。


鍵は、みんな非リア充だという前提に立つことなんじゃないか。みんな少しずつ、ずっと寂しい。だからその孤独を了解しつつ、友人知人をもう一度見てみる。そして寄り添うように、ふたたびコミュニケーションを試みる。そういう心持ちで、今年のクリスマスは過ごしませんか。それでも暗い気持ちや呪詛がむくむく頭をもたげるなら、このマンガをもう一度読み、裏アカにでもツイートすればいい。なんなら私にリプしてもいいよ。解決はできないけど、受け止めることくらいはできる。伏し目がちに、メリークリスマス。

   22415        0        26
2018年12月06日

おいおい12月に入りました。じっと手を見る @SHARP_JP です。いったいなんだ、もう12月って。私なんかほぼ毎日、仕事でツイートしているわけですから、1日1日を刻む感覚がふつうの人より強い方だと思うけど、光陰矢の如しどころか、2018年のサイコロ振って3マス進んだらもうゴール、みたいな感覚です。毎日ひいこら生きてきたはずなのに、あまりに冗長な日々だからと1年をばっさり編集されてしまったように、途中の記憶がほぼない。こわい。


ところで私は、インコを飼っているのですが、インコはほんとうに生活が規則正しい。日の出日の入りに同期したその規則正しさは、どんより日々を暮らす私に安心感をもたらしてくれるけど、インコ本人は1年というサイクルをどう思っているのだろう。動物には過去現在未来という時間の概念がないと聞きますが、もしそうだとしても、インコなりの規則正しさで、のっぺりした私の毎日を見つめ、私の代わりに365回のふれあいをカウントしてほしいと思う。できるなら私が死ぬまで毎年。


また居酒屋zoo(丸山ミユ 著)



今回はとても不思議な作品です。いや不思議でもないか。このマンガ(居酒屋zooというシリーズ)では、キリン、チーター、ウサギ、アヒルやライオンなど、つまりわれわれにもおなじみの、動物園に暮らす動物たちが夜な夜な居酒屋に集まり、愚痴やよしなし事を語り合う。一見不思議なシチュエーションですが、話す内容やクダを巻く姿はほぼ、会社であくせく働くわれわれだ。そう思えばなんの不思議もないし、言うならば動物園で実直に働く動物たちこそ、文字どおりの「社畜」に見えて、ねぎらいの気持ちも湧き上がってくる。


そしてこの作品で特筆すべきは、動物園を訪れる人間を、動物たちが「マン」と呼称することです。往々にしてなんらかの仲間内ではスラングが発生し、その符号を使うことが仲間の証明にもなるのですが、動物園の動物たちは人のことを、ニンゲンでもなく、ヒューマンでもなく、マンと呼ぶ。われわれヒト科がその字義のみを追えば、雌雄の片方しか表現できていない不完全な呼称が、いかにも異種から見た群れの名付けを感じさせ、ほんとうに動物たちがこのスラングで会話しているようで、私はわくわくしてしまう。


当たり前ですが、動物園に赴き動物を見る私たちもまた、檻の向こうから動物にじっと見られているわけですよね。向こうから見つめる動物は、われわれ人間の個体差を気にするいわれもなく、ただただ「マン」の生態として、冷静にわれわれを観察する。マンの個体差、つまり私たちが個性と思うあれこれを動物は気にしないし、だからこそ逆に、マンの大きな差異が鮮やかに際立つのでしょう。つまり12月のわれわれの生態は「クリスマスにおどるマン」と「クリスマスに何の価値も見出さないマン」に大きく分かれるのだ。


例えばわれわれは、リア充と非リア充を二項対立で語りがちですが、もし動物のまなざしから判定すると、それは優劣でなく、ただの違いでしかない。もしそんなフラットな違いなら、リアだろうが非リアだろうが、自分の属性をすんなり受け入れられそうな気がしてくるから不思議です。


私も飼っているインコから、そんな異種ならではのまなざしを向けられていると思えば、なぜかよりいっそう、動物と暮らす愛おしさが増すように思えるのです。ちょっと気がはやいですが、みなさんよいクリスマスを。動物はあなたのそばで、いつも淡々と暮らしているよ。

   6994        3        57
2018年11月29日

寒くなってきました。みなさんもうコート着てますか、 @SHARP_JP です。オシャレかダサいかは別にして、私もそれなりに着る服のこだわりや好きな服の感じがあります。オシャレかダサいかは別にして。


オシャレにしろダサいにしろ、ファッションは記号です。色、形、スタイル、描かれた柄、ブランド、無数の選択肢からどれを身に纏うかを選ぶことはすなわち、あなたがどういう価値観や美意識を持ち、なにが好きでどんな人間か、発信する行為。つまり私が好む服やスタイルも、イコール私が他者からどう見られたいか、なのだと思います。極論すれば、ファッションに無頓着というのも「私はそういう方面に構う人間ではない」というサインなのでは。


だから働く場所では特に、服装を自由にした方がいいと思うのです。会議でもプレゼンでも、コミュニケーションを円滑にするには、お互いの「人となり」がわかりあえた方いいですよね。それもなるべく速く。もし服装が自由なら「全身ブランド物だ」「シャツは第3ボタンまで開ける人」「あのバンドTじゃない?」「逆に私服は無頓着なんだ」「噂に反してかわいい系が好きっぽい」などと、相手を理解する記号量がグンと増える。言葉を交わすより前に、服装から「相手がどう思われたいのか」というメタメッセージを受信でき、それにあわせてふるまいや喋り方すら変えることもできる。


みんながスーツや制服を着ることで、匿名性という逆の記号によって組織のパフォーマンスが向上するという考えもわかります。けれどこれだけスピードが求められるご時世、職場のつきあいを通して徐々に「人となり」を理解するより、瞬時に「この人はどういう人か」わかる方が、有益な気がするのです。


あなたが幸せになる方法(池田ルイ 著)



なんだか辛気臭い話をしてしまいました。職場のコミュニケーションに自由な服装がいかに貢献するかはともかく、だれでも「なにを着るか」が最重要なイシューになる時期がありますよね。そう、恋愛です。


恋愛中のファッションは大問題だ。なにしろあなたのファッション、記号を発信する相手は好きなあの人だけ。イチかバチかだよ、恋愛は。この作品で描かれる女子大生のモノローグを読むたび、彼女のファッションの「正解の少なさ」に同情を禁じ得ない。なにしろ片思いだし。


そしてその「正解の少なさ」は、とても疲れる。なぜなら、片思いで選択するファッションには「私はこう思われたい」「私をこう理解してほしい」という要素が含まれないから。記号はすべて「あなたがどう思うか」しか許されない。しかも正解は相手しか知らないし、合否を教えてもらえるとも限らない。


本来、自分を理解してもらうために選び、身に纏ってきたファッションが、片思い中は反転してしまう。選択の主体性は奪われ、正解もわからない。その片思いが成就するならまだしも、うまくいかない場合は、服を選ぶたびに、自分を削り続けてしまうのだ。それはとても危ないことだし、自分が削れてなくなってしまう前に、ファッションを自分の手に取り戻さなければいけないと、私は思います。とても難しいことだろうけど。


そう、本来なら「私はこう思われたい」という記号を発信し、その記号が素直に受信され、もっと理解したいという人が現れた時こそ、ほんとうの恋愛がはじまるのではないでしょうか。じゃないと続かなくない?自身の経験と照らし合わしても、そう思います。少なくとも私は、「私はこれが好き」という記号を堂々とふりまく人が、好きです。そんな人は例外なく、この作品のラストのように「私は私。私は好きなの」という清々しさをいつも纏っていて、私にはそれがとても魅力的に映るのです。


みんな、好きな服を着ればいいと思う。


今回は慣れないことを考えたので疲れました。ファッションも、恋愛も、ほんとうはちょっと苦手だ。私含めて苦手な面々は、恋のマンガを読もうよ。

   11509        3        88
2018年11月22日

おつかれさま、 @SHARP_JP です。ご多分に漏れず、私も会社で働いていると疲れる。それもうんざりするほど疲れる時があります。その疲労はもちろん、人間関係とか職場環境といった、「それな」としか言いようのない要因もあるのですが、私の場合、「意味に疲れてしまう」ということがままある。


企画書を書けば冒頭は必ず、それをやる意味を説く。上司に報告をしようものなら、とった行動の意味まで説明を要す。微に入り細にわたる職場のルールは、揃いも揃って意味を圧迫してくる。挙げ句の果てには私の場合、ツイートの意味を、よくわからないない人(ほとんどはネットすらやってない)に説明させられたりもする。「君、このツイートのどこがどうおもしろいのか述べよ」というような形で。企業の活動も、そこで働く人間の行動も、なんでも意味だ。意味がなければ存在が許されない、そういう世界。


だけどですよ。声を大にするつもりはないけど、人間の行動って、いつもそんなに意味ある?意味なんかないけど、楽しいことってあったりしない?ていうか、あらかじめ意味が説明できないと行動できないとか、ちょっとしんどくない?


あらゆる行動やアイデアには、一対一で意味が付随するわけでもないし、当の本人でさえ、意味があとから知覚されることだってある。行動やアイデアの意味なんて、決してシンプルにひとつなはずもなく、自覚できる意味、まだ自覚できない意味、自分の内側でなく、むしろ周囲から課せられる意味だって、ほんとうはたくさんあるはずだ。行動の前に意味のプレゼンを要する世界は、まるで入力の前に出力を求められるようで、私はゆっくり窒息するような気持ちになる時がある。


たぶんそういう時が、芸術の出番なんじゃないか。意味など軽々と飛び越えて、なおかつ意味を語らずして、目の前にいる人間と相対する芸術は、私に憧れのような痛快さと、静かな安堵をもたらしてくれる。うんざりするほど疲れると芸術を欲するのは、きっとそういう理由なんだと思う。


一芸(小山コータロー 著)



想い(やじま けんじ 著)



今回はちょっと変化球な寸評になりそうです。上記の2作を読んだ方は同意してもらえると思いますが、作品そのものがまず変化球。球が曲がるとかそういう以前に、球が変化してる。へんげ球。へんげマンガ。


そして次に、私は言いたい。「この作品について、意味を語る必要ある?」


作者の小山コータローさんは、違和感コメディクリエイターと自称されるだけあって、それはもう「意味の彼岸」としか言いようのない作品がたくさん(図形家族シリーズとか読んでみて)そしてこれはかんぜんに私の憶測ですが、作者の小山さんだって、ほとんどの作品において、描く前に意味を把握していないだろうし、描いた後もその意味を語る術を持っていないのでは。10年後くらいに突然語れるかもしれないけど。


なおかつ今回は、別の作家であるやじまさんが、同じキャラを使って応答し、意味の彼岸をさらに遠くへ打ち返しているわけです。ここでは「ラリー」というコルクBooks特有の仕組みが、まったく知らない言語で繰り出されるラップのフリースタイルのように、意味をはるか遠くへ放り投げ、ただ感覚的な快楽とともに私の眼前に現れる。それを読む私は、おふたりと同じスピード感と快感を追認するように、ニヤニヤが止まらなくなる。そして同時に、ほっとする。私にとって、意味から解放されるこの体験が、癒しという行為なのだ。意味に疲れたら、意味を放り投げた作品を浴びるにかぎる。おすすめです。

   13931        2        105
2018年11月15日

風邪をひいていました、 @SHARP_JP です。みなさんはだいじょうぶですか。屈強とか筋肉といったワードには無縁の人生を送ってきたので、少なくとも自分の身体に過剰な自信はありません。どちらかというと、己は老体だと思い込む癖すらあります。腰も痛いし。重いし。性格的に腰が重いタイプなうえに、物理的にも腰が重い。つらい。きょうの寸評はあこがれの職業に向けて、重い腰を上げてみた作家さんのマンガです。なんだこのつなぎは。


【今回の寸評】イラストを描く仕事がしたくて就活した事(yuriika 著)



マンガに限らず、音楽でも映像でも文章でも、あらゆる表現の営みにおいて、どこからプロと呼べるのか問題は、よく話題になります。私もよくわからない。ただ少なくとも、インターネットのおかげで昔より「表現し世に問う」という敷居が圧倒的に下がったわけで、「その表現で生計が立つか」という従来の線引きは、そろそろ社会的なコンセンサスから後退してもいいんじゃないかな、とは思います。たぶんもう、食えないからプロじゃないわけでもないし、食えないから表現に奉仕していないわけでもない。


語弊があるかもしれませんが、作者のyuriikaさん自らがおっしゃるように、「小さい頃から好きで楽しいから趣味で描いてきた」という行為自体に、表現の優劣があるとは私には思えないのです。さらにいえば、圧倒的にたったひとり、ただ自分のためにしか描かない表現でも、その孤高の強度ゆえに、それはじゅうぶん他人を撃ち抜く可能性があると、私はまた思うのです。


ただし、「だれかの期待に応える」「だれかの期待を上回る」ように描くという行為には、うっすらプロのラインが見えるのではないか。ある人の表現に、期待を寄せる人が現れ、それに応えようと表現を重ね、いつしかその行為を応援したいと思う人が現れる。趣味に社会性が生まれるというと大げさかもしれないけど、自分だけの楽しみが、はからずも他者の期待を呼び寄せ、行きがかり上でも、その期待を越えようとがんばる。そういった変化が自身の中に現れた時、その人はプロという領域へ踏み出すのではないか。


そしてたぶん、プロの世界は思った以上に残酷で、そこへ踏み出す人はすぐに葛藤や困難に向き合うことになる。この作品で吐露される「本当になんて難しい事なんだろう」という壁に。表現する人にとって、他者から期待を寄せられるのは得がたい喜びだけど、期待のハードルはやすやすと上がっていく。たいへんな世界だ。


おそらくこの作品はこれからも続くはず(2話目も公開されてるので読んでほしい)ご本人にとって、会社所属のイラストレーターになれるかどうかは切実な問題だと重々承知ですが、私自身は作者のyuriikaさんが「本当になんて難しい事」にどうやって向き合っていくのか、それをそっと見守りたい。私はただの会社員だし、この世でもっともプロから遠い位置に暮らす人間です。ただそれでも「本当になんて難しい事」が本当に難しいだろうことは、痛いほど想像できる。3話目も4話目も描かれ、そしていつか、拍手しながら完結しますように。

   5051        0        47
2018年11月08日

こんにちは、前向きとは無縁な @SHARP_JP です。時々思うのです。自分は、過去の自分に「こんなことが起こるんだぞ」と語りかけるために、ひいこら生きるのではないかと。過去の自分に「いまもしんどいだろうし、これからもしんどいけど、お前が思いもしないことはいくつか起こるし、その時に私はお前に自慢したい。だから生きろ」と約束させ続けるために、人生は続くように思う時があります。そしてそんな時は、現在の自分が過去の自分をようやく祝福できたようで、悪くない瞬間でもある。


自分で自分を肯定するのは生きる上で必須なことだけど、なかなか難しいことでもあって、私たちはいつも事後的に過去の自分を肯定することでしか、自分で自分を褒めてあげられないのかもしれない。辛いな。


(今回の寸評)猫と私の漫遊記(まきはるか著)



読んでいて胸が苦しくなりました。「もう頭の中はからっぽだよ」「描いても描いても私の漫画は誰にも届かない」そう絞り出す作者は、うまくいかない現在の自分を持て余し、必死に努力している事実しか、創作を継続させる根拠が見つからない。そこへ過去の作者自身=猫のトトが現れる。猫はどんどん時間を遡るように、現在の作者を導いていく。浅い過去には、殺風景な自世界が広がっているのがリアルだ。深い過去、幼い頃まで遡った時にようやく、楽しそうな場所と楽しそうな自分が現れる。幼いころの自分を自分が見上げる、ここのコマは圧巻だ。


たぶん表現(もしくは芸術と言っていいかも)は、自分を覗き込むことからしかはじまらない。自分を覗き込むことなく表現を試みると、「自分が好きなものがわからなく」なるまで、からっぽを進行させる。だれかの心を動かすには、まず自分の心を差し出さなければいけない。人の感情は、感情にしか反応しないから。だからこそ表現は、自分を覗き込むという、とてもめんどくさい行為を丁寧に続けなければいけないのだ、とあらためて考えさせられました。


もちろん自分を覗き込んだからといって、すぐに他者からの評価を獲得できるわけではない。そこへいたるには膨大な訓練や試行錯誤が必要とされるのも、また表現の過酷さなのでしょう。表現する人の進む道は茨の道だけど、過去の自分から掬い出された物語は、少なくとも現在の自分を肯定するはずです。がんばってください。


とここまで書いて、いったい私は何様だという思いに捕らわれたので、静かに自分を覗き込もうと思います。真っ暗闇が広がってそうでこわい。それはそれで人間として問題な気がする。


追伸ですけど、作者のまきはるかさんが、自分と自分の世界を描けばいいことに気づき、もう一度がんばってみようと思ったきっかけは、まさにここ、コルクBooksだったそうです。もし行き詰まりを感じるマンガ家さんがいらっしゃるなら、マンガ家さんが切磋琢磨しあうコミュニティ、ちょっと覗いてみてもいいかもしれません。

   10678        7        79
2018年11月01日

いかがおすごしですか、 @SHARP_JP です。今日はあらかじめ断っておくことがあります。広告です。 今回の寸評は寸評のふりをした、広告です。 みなさんもネットの記事を読み進めるうちに「あれ…これ広告かな…?」と疑念の深まる経験があると思います。 実際、やっぱり広告なことがほとんどですし。 あの手の広告は、ふだんは広告寄りの仕事をする私も、あまりいい印象を持ちません。 ですからここは潔く、宣言します。【これは広告です】


(今回の寸評)「#失敗した時は笑え 前向きマン」(こしのりょう 著)



まずは上記のこしのさんの作品、読まれましたか。 父としてのこしのさんのかわいらしさというか、世のお父さんは娘からプレゼントをもらうと、もれなくニヤニヤが止まらないのだろうな、と思わされます。 ましてや、大学生になる娘さんが下宿先からプレゼントを贈るくらいですから、その親子関係は幸福な距離が続いている。 だからお父さんはもう、屈託なくファミレスに娘がくれた服(ポロシャツかな)を着ていくし、豪快に食べこぼしてしまうくらいうれしくて心ここにあらずなんでしょう。 読んでいるこちらまで、微笑ましい気持ちになる。


ただね、やはり、食べこぼしはイカンと思うのです。 いくら「失敗した時は笑え」とドラゴン桜の桜木先生に習ったって、ダメなものはダメだ。 大切な服に、消えないシミを残したらダメ、ぜったい。



↓ ここから広告 ↓


そこで。


超音波ウォッシャーの出番です。カバンにもスマートに入る、軽量スリムな新モデルなら、水を含ませたパフで外出先でも着実に食べこぼしのシミを落とします。しかも洗剤要らず。


詳しくはこちら

http://www.sharp.co.jp/sentaku/uw/kantan/


どうですか、こしのさん。超音波ウォッシャーさえあれば、娘さんからもらった服でも安心して食べこぼせますよ。シミになりませんよ。どうかご検討ください。


↑ 広告ここまで ↑



でもね。ここまで言い放って、私も思うのです。 大切な洋服についた食べこぼしを見て、おもむろに超音波ウォッシャーを取り出す父と、食べこぼしを笑いながら家族へ素直に謝る父と、いったいどちらが愛すべき父親か。 この作品を読めば、自明ですよね。失敗した時に笑えるのは、その場所で笑える関係性を築いてきた人の特権だ。 そしてそんな前向きな関係性を、家族の絆と呼んだりするのではないだろうか。


かたや私は、なんて野暮なことをしてしまったのだと、超音波ウォッシャーをそっとしまうのです。 が、ここまで読んだみなさんは、おわかりですよね。シャープの超音波ウォッシャー、たいへん便利な品です。 買うのをやめないで。洋服のシミ、諦めないで。なにとぞご検討を。

   1479        0        24
2018年10月25日

こんにちは、@SHARP_JP です。 あまり人に言わないようにしているのですが、大人になった今でもぬいぐるみが好きです。 先日、映画「プーと大人になった僕」を観ました。「ピ、ピグレット、かわいすぎか」と悶絶しつつも、大人なのでいろいろと思うところはあったのですが、 とりわけクマのプーさんとクリストファー・ロビンが汽車に乗るシーンで、車窓を眺めるプーが「木…羊…池…あ、犬を連れたおばあさん…家…また家…猫…」と目にした対象を声に出し続ける 「目に見えるものを言うゲーム」が印象に残っています。


「目に見えるものを言うゲーム」は、大人になったクリストファー・ロビンにとって、行きの列車では自分の時間を邪魔する「うるさいもの」だったけど、 帰りの列車ではプーに代わり、窓の外に映るものを思わず口にしてしまいます。 それはまるでクリストファー・ロビンが、過去の自分を取り戻したようで、とてもホッとするシーンでした。 言われてみれば私も、自分が目にしたものを声に出すだけで、豊かな遊びになった時代があった。見えることが新鮮で、見えるものが世界の豊かさを示す時期があった。 そして今回、どこか似たようなことが描かれた作品を選んでしまったのは、プーの影響です。 あと会社はやっぱりしんどい世界だという思いが強化されたのも、プーのせい。あれ、社畜という風潮には重い映画だぞ。


(今回の寸評)「夜の飛行機。」(やじま 著)



当たり前ですけど、子どもは背が低い。だから視線も低い。 視線が低いということは見渡せる範囲も限られるから、子どもの世界はとてもせまいはずだ。 だけど自分の記憶を振り返ってみても、ふしぎと「世界はせまい」と感じた覚えはない。


たぶん幼い頃はみんな、もうひとつ身体を持つのだと思う。 この作品の少年のように、子どもはドローンみたく視線の高度を自在に操ることができる。 それを妄想と呼ぶのは大人の勝手だけど、幼い頃は目に見えるものをきっかけに、さらに見ることができたし、だからこそ世界は広く豊かで、絶望しないでいられたのかもしれない。


少年は夜空に飛行機を見つける。とたんに自身は高度を上げ、雲を見下ろす。 雲から頭を出すのは、自分がふだん「敵わない」と思うモノや人たちだ。 やがて少年は「嫌いなものと好きなもの」に遭遇する。苦手なギンナンを、雲の上からぽいぽい放り投げるのはさぞかし気持ちのいいことだろう。 そして大好きな揚げパンを3つも食べる(給食に揚げパンとか、作者のやじまさんの年代がわかりそう)。なんて豪華で自由な夜のフライト。


私がこの作品に妙なリアリティを感じるのは、少年がフライトを「お母さんがお風呂に入っているうちに」済まそうと自覚している点だ。 空想している子どもは、無時間の中を生きることができる。 みなさんだって幼い頃の空想に、おどろくほど時間が経っている経験も、おどろくほど時間が経っていない経験も、両方あるでしょう? 空想する子どもが無時間で生きられるのは、無我夢中だからではなく、たぶんほんとうに時間を伸び縮みさせる能力があるからじゃないか、と私は思っています。 だからこそ、少年はお母さんのお風呂の間だけ、とフライト時間を自分で区切っても平気だし、じゅうぶん自由なのだ。


それにしてもマンガ家さんは、幼い頃の記憶や感覚をどこまで覚えているか、というのも必要な資質なのかもしれませんね。私はダメだ。 ほとんど忘れちゃってる。ところでこの作品は御幣島芸術祭という、大阪で開催される芸術祭をテーマに描かれたそうです。 だからかもしれませんが、少年のフライト中、雲の上からあべのハルカスがにょっきり顔を出す。大阪に暮らす私にはとても親密なシーンでした。 おなじく #ワクワクをカタチに #みてアート2018 #漫画家たまご展 で コルクBooksに投稿されたマンガは会場で展示されるそうなので、興味のある方はどうぞ。

   1454        0        13
2018年10月18日

こんにちは。ふだんは黙々と @SHARP_JP からツイートを繰り出す会社員です。 会社でも学校でも、ある人の評価が自分の中でクンッと上がること、ありますよね。 たとえばある人が自分の仕事を手伝ってくれたとか、やさしくしている現場を目撃したとか。 中でも劇的に評価が上がるルートとして「別の人からその人の評判を聞かされる」というのがあると、私は思っています。


「あの人、実はいい人らしいよ」とか「私はあの人がいかにいい人か知っている」といった、第三者からの評判は絶大です。 その第三者が自分の友人や知人なら、よりいっそう、信用のおける評価になるでしょう。 つまり「評判」というのは、本人が直接アピールするより、迂回して人に伝わった方がパワーと信頼を獲得する。 評判は遠回りすればするほど、実は人の主観に強く作用するのかもしれません。


これはモノの評判、いわゆる「口コミ」に置き換えるとわかりやすいですよね。 「ウチの製品はこんなに性能がいいのだ」「ここがおすすめポイントだ」と、企業がお客さんへ延々と力説する広告という仕事をしていると、 お金と労力をかけた広告がどこかのだれかの、たったひとつの「推しツイート」にコロリと負けることがよくあります。 個人の実感がこもった評判は、別の人に伝わることで、企業の広告よりも力を帯びる。 今回はある人の評判が、マンガとして私へ迂回的に伝わり、評価が爆上げになった話です。


(今回の寸評)「握手」(渡部大羊 著)



多分に知ったかぶりなのは自覚の上で申し上げますが、そもそもマンガは画と文字で、物語を伝えるものですよね。 その物語は、創作に基づいた架空の話もあれば、日記のように実際にあったことの場合もある。 そして不思議なことに、実際にあったささいな出来事さえも、マンガの手にかかると、豊かな奥行きが生まれます。 いまっぽく言うと、エモくなる。


そこで「握手」の作品。マンガの中で、グッと力強く手を握り返したマンディさんは、私も存じ上げる、純度100%のいい人です。 このエピソードを読まなくても、私は彼がいい人だと知っているのですが、それでもやっぱり、この作品を読む前と後ではいい人さの奥行きが劇的に違う。 たとえすでに知っていることでも、マンガの力によって、さらに豊かに知ることができる。


私は彼がいい人だと知っているけど、彼がした握手は目にしていない。 だけどぜったいに、彼は握手を辞退しかけて、思い直し、力強く握手した。 こんなのを読まされたら、マンディさんのいい人イメージ、爆上がりじゃないか。 こんど私の話も、架空のエピソードでいいので書いてほしい。だれか書いてください。 私もいい人イメージ、爆上がりたい。


ちなみにこの握手の作品は、ほかにも二人のエピソード描かれています。どちらも読めば、たとえその人を知らなくとも、強烈にいい人評価が上がります。みなさんも読んでみて。

   1189        0        12
2018年10月11日

コルクBooksに集うマンガ家のみなさん、読者のみなさん、こんにちは。@SHARP_JP です。唐突ですが私、ホラー映画が好きです。特にゾンビ。なのでこの作品に反応してしまいました。


たとえばある人の発言に、自分と趣味が同じだとほのかに確信した瞬間、グッと距離が縮まる感覚があります。一方通行の親近感だとしても、会ったことがなくても、それはもう半分友だちと言ってもいいのではないか。インターネットやツイッターにどっぷりなわれわれは、そう思いませんか?


(今回の寸評)「怖い映画の妄想しちゃう映子、と牧村君。~ビデオ屋での続き」(やじま 著)



この「怖い映画の妄想しちゃう映子」はぜひシリーズで読んでほしいのですが、それはそうと、怖い映画の妄想しちゃう女の子がもし私の近くにいたら、好きになる自信がある。好きになられても困るだろうし、そんな女の子に出会ったことないけど。


それなりに私もこじらせた成長を遂げてきたので、無愛想な牧村くんには冒頭からすでに親近感がわいています。レンタルビデオ店でバイトするくらいですから、牧村くんもそうとうな映画への愛を抱えているのでしょう。


そこへ、右手にジョン・カーペンター、左手にダリオ・アルジェント。真ん中にクラスメイトの顔。その子の瞳はつぶらなようでいて、ホラーシーンを重ねるフィルター付きだ。自意識ゆえの無愛想男子、牧村くんだって、やさしくしないわけにはいかない。最後のシーンで、喜ぶ映子さんの破顔を正視できない牧村くん、わかる、わかるよ。大人の私もドキドキする。


自分が「好き」だと思う対象に、どうやらあの人とは共通項がありそうだ。ひょんなことからそんな予感に気づく瞬間は、友だちや恋人という関係へひた走る加速スイッチみたいなものです。仲が深まるのは、もう間もなく。一般的にはマニアックと評される狭い「好き」の話だからこそ、ふたりが出会う瞬間が描かれたこの作品が、とても好きです。


ちなみに映子さんが手にする映画、右手にトビー・フーパー、左手にジョージ・A・ロメロだったら、まちがいなく私はその場で告白してる。

   1303        0        12
2018年10月04日

コルクBooksに集うマンガ家のみなさん、読者のみなさん、こんにちは。 シャープのツイッターアカウントを運営している者です。ツイッターではシャープさんと呼ばれることが多いです。 ほんの数ヶ月前、コルクBookで投稿されたマンガの中に、シャープの空気清浄機を見かけたことをきっかけに、トキワ荘2.0を標榜するこちらへお邪魔するようになりました。 その後、 #自分で初めて買った家電 や #家電のトリセツマンガ といったお題を出し、マンガをじっくり読み、あれこれ思ったことを呟いてたら、なんだかとても楽しいことに気づいたのです。私が。


そこで厚かましくもコルクBooksの中の人に頼みこみ、毎週マンガを読んでその作品を推すコーナーを作ってもらいました。 ど素人極まりない私が恐る恐るマンガを寸評しながら、いつかトキワ荘近所にあったラーメン屋さん(名前は松葉でしたっけ)のように、トキワ荘で励むマンガ家さんにとって、 日々のささやかなモチベーションになれたら、と考えています。


それでは恐れ入ります。 1回目。 #家電のトリセツマンガ でずっと気になっていた作品です。


(今回の寸評)「マッチョ先輩と可愛い後輩3」(ワダシノブ 著)



ここ10年くらいですっかり定着した言葉に「フラグ」があると思うのですが、いまやあらゆるコンテンツにフラグが立ちまくる時代。 受け手が勝手に認定するフラグも含めたら、この世もあの世もフラグだらけです。 では「フラグ」というワードがなかった頃はどうだったのか、うんと思い出してみると、たぶん符号とか伏線とか言って、作者のサインをわれわれなりに受信しようとしていた気がする。


だけどフラグと符号は、どこか少しちがう。 フラグは「フラグが立った」というように、明らかに目印として、受け手へ過不足なくその後のストーリー分岐を暗示する。 一方、符号や伏線はもう少し抽象的な、そう物語の気配といったものまでを、作者と受け手が共有していたように思います。


「マッチョ先輩とかわいい後輩」の空気清浄機を掃除するお話は、あの符号とか伏線と言ってた頃の「気配」に満ちていると私は思うのです。 2人の間に余白があって、関係性の変化を点で区切れない感じ。ピコンと音が鳴り旗が立つにはあまりに微かに密やかすぎて、その空気のゆらぎをじっと味わうだけ。 フィルターを掃除する手順ひとつひとつに気配だけが満ち(しかも手順はすべてトリセツ的に正しい)、そしてお話は終わる。 その余韻はもはやフェティッシュな感情として、私の中に居座るのです。 くれぐれもよろしいですか、これはトリセツの話だぞ。

   2060        0        17
1 / 1
戻る